理想と現実 5



「こんなところで、なにをしているのだ?」

背後から突然聞こえた声にジェレミアは、掴んでいたペットボトルを落としてしまいそうなくらいに驚いた。
恐る恐る後ろを振り返れば、キッチンの入り口には、てっきり眠っていると思っていたルルーシュの姿があった。

「あ・・・ル、ルルーシュ様。お休みになっていたのでは?」

「それとも起こしてしまいましたか?」と恐縮するジェレミアの声には答えずに、ルルーシュはペタペタと裸足のままの足でジェレミアに近づいてくる。

「ルルーシュ・・・様?」
「・・・お前の姿が見えないから、帰ってしまったのかと心配したぞ」
「わ、私のことを、心配してくださったの・・・ですか?」
「ああ・・・」
―――折角手元にある玩具に勝手にいなくなられてはつまらないからな。

ルルーシュの黒い思惑を他所に、ジェレミアは自分を心配してくれていた主に酷く感動した。
感動の余韻にいつまでも浸っているジェレミアの顔を見上げ、ルルーシュはクスリと笑う。
視線をジェレミアの持つペットボトルに移して、それを食い入るように見つめた。
感動の余韻に酔い痴れていたジェレミアは、ルルーシュのその視線に気づき、首を傾げる。

「ルルーシュ様?」

問うように主の名前を呼ぶと、ルルーシュは「喉が渇いた」と呟くように言った。

「ではお飲み物をご用意いたしますのでしばらくお待ちいただけますか?」
「それでいい・・・」
「は!?・・・ミネラルウォーターでよろしいのですか?」
「そうではない。お前の手にしているそれがいいと言っているんだ」

飲みかけのペットボトルを指差すルルーシュにジェレミアは困惑した。
まさか主に自分が口をつけた飲みかけの飲み物を差し出すわけにはいかない。

「それはなりません!今すぐ新しい物をご用意いたしますので・・・」
「それでいいと俺が言っているんだ。気にするな」

言われてジェレミアが渋々それを差し出すと、ルルーシュは挑発的な笑みを浮かべた。

「飲ませてくれないか?」
「・・・は!?・・・ルルーシュ様?今なんと、仰られましたか・・・?」
「お前の手で俺にそれを飲ませろと言ったのだ!」
「・・・で、ではグラスをご用意いたしますので・・・」
「そうじゃない!」

ルルーシュはジェレミアに自分の身体を寄せた。。
絡みつくような仕草のルルーシュに、ジェレミアは身体を硬直させたまま、身動き一つできずにいる。
挑発的な笑みを絶やさないまま、ルルーシュの右の人差し指がジェレミアの唇に触れた。

「くちうつし・・・」
「・・・は、はぁ〜ッ!?」

唐突なルルーシュの言葉に、ジェレミアはペットボトルを持つ手の力の制御を忘れ、それをベコリと握りつぶしてしまった。
ぽたぽたと零れ落ちた雫がルルーシュの足元を濡らしている。

「も、申し訳ございません!」

一瞬、遥か彼方にぶっ飛びかけた意識を戻して、ジェレミアは慌てて自分の身に着けているシャツを脱いで、濡れたルルーシュの足を拭いた。

「す、すぐに新しいお飲み物をご用意いたします!」
―――なんだ、意外とガードが固いな・・・。

ルルーシュはつまらなそうに、慌てふためくジェレミアを見ている。
冷蔵庫から取り出した新しいペットボトルを「どうぞ」と差し出して、ジェレミアは伏せ目がちにルルーシュの様子を窺った。
しかしルルーシュはそれを受け取ろうとはしない。

「ルルーシュ様?・・・喉が渇いておいでだったのでは、ございませんか?」

ジェレミアは主の顔色を窺いながら声をかける。

「さっき俺の言ったことを忘れたのか?」
「も、申し訳ございません・・・最近ちょっと耳の調子が良くないようでして・・・はっきりと聞き取れなかったのですが・・・?」
「なんだ、そうだったのか。俺はてっきりお前がわざと俺の言葉を理解していないフリをしていたと思っていたよ」
「わ、私がそのような・・・ルルーシュ様に失礼になることをするはずがないではございませんか・・・」

渇いた笑いを零しているジェレミアの言葉が、妙にぎこちなかった。
ルルーシュはそんなジェレミアを気にも留めず、右手を差し出すとジェレミアの仮面に覆われた左の頬に触れた。
そのまま滑り落ちるように首筋を辿るルルーシュの指先に、またしてもジェレミアは身体を硬直させる。
首筋から項へと移動したルルーシュの手が、ぐいとジェレミアを引き寄せて、近づけた耳元に息遣いが感じられるほどの位置にルルーシュの唇が寄せられた。

「口移しで俺に水を飲ませてくれないか?」

耳元で囁く悪魔の言葉に、ジェレミアは顔を真っ赤に紅潮させて、激しく狼狽している。

―――な、・・・なんと言うことを!?ルルーシュ様は一体何をお考えになっておられるのだ?く、くちうつし・・・ということは、つ、つまり・・・キ、キ、キス・・・!?ば、馬鹿な・・・ありえない!!私とルルーシュ様がキ、キ、キ、キスするなど・・・断じてありえない!!・・・そ、そうだ!ル、ルルーシュ様は寝ぼけておられるのだ・・・そうだ、きっとそうに違いない!あの気高いルルーシュ様が私ごときに、そ、その・・・く、くちづけ・・・されることなど、お望みになるはずがないではないか!冷静になるんだジェレミア!!期待を持ってはいかん!私はルルーシュ様の臣下に徹すると決めたではないか!

ルルーシュの柔らかそうな唇の誘惑を振り払うように、ジェレミアはルルーシュの身体を突き放した。

「・・・どうした?飲ませてくれないのか?」
「ルルーシュ様。お戯れもほどほどにしていただきませんと怒りますよ?」
「戯れ?・・・何を言っている。俺は戯れで言っているのではない。お前に飲ませて欲しいんだ!」
「では、グラスをご用意いたしますので少々お待ちください」
「ジェレミア!俺になんど同じことを言わせる気だ!?」

ルルーシュは不機嫌を露にジェレミアを睨みつける。
しかしジェレミアは怯まずに、棚からグラスを取り出してペットボトルの水を注いでルルーシュに差し出した。

「いらない!」

ルルーシュはそっぽを向いて、それっきり口を噤んだ。
その仕草が、まるっきり拗ねた子供のようで、ジェレミアは苦笑する。
一切の期待を捨てて忠実な臣下に徹することによって、ジェレミアに少し余裕が生まれたらしい。
ルルーシュにはそれがおもしろくなかった。
断られると、無性にそれが欲しくなる。
最初は狼狽するジェレミアをからかって困らせて遊んでやろうと考えていたのだが、気が変った。
そうなるとルルーシュの頭の切り替えは早かった。
怒りを滲ませた表情をふっと解いて、代わりに少し淋しそうな顔をつくる。
「もういい」とぽつりと呟いて、グラスを手にしたままのジェレミアに背を向けて、ふらふらと歩き出した。

「ルルーシュ様!」

慌てたジェレミアがその後を追ってくるのを確認して、ぴたりと足を止める。
手の届く位置にジェレミアがいることを気配で確かめて、ルルーシュはふらりとよろめいた。
意識して脚の力を抜いて身体のバランスを崩すと、床に倒れる前にジェレミアの腕が慌ててそれを抱きとめる。

「ルルーシュ様!いかがなされましたか?お気分が優れないのですか?」

抱きとめられた腕の中から虚ろな瞳でジェレミアを見上げて、ルルーシュは唇を小さく開く。

「ルルーシュ様!?」
「・・・のど」
「は?」
「喉が渇いて死にそう・・・」
「す、すぐにお飲み物をお持ちいたします!」

ジェレミアは近くにあった椅子にルルーシュの身体を預けて、慌てて水の入ったグラスを取りに戻った。
その耳に、ドサッと床になにかが落ちたような音が聞こえて、ジェレミアは咄嗟にそれがルルーシュであることを直感し、水を持つことも忘れてすっ飛んだ。
ジェレミアの予想通り、椅子から崩れ落ちたルルーシュが床に倒れている。
「ル、ルルーシュ様!!お怪我はございませんか!?」と、その身体を抱き上げて、椅子ではダメだと判断したジェレミアはルルーシュをベッドに運ぶ。
急いで水を持って部屋に戻ると、ルルーシュは置かれたままの格好でぐったりとしていた。
「お水をどうぞ」と差し出しても、身体を起こせそうにない。
仕方なく、背中に手を入れて抱き起こして、グラスを口許に運ぶ。
僅かに開いた唇の隙間から水を流し込もうと試みるが、それは上手くいかずに口端を伝って零れ落ちた。
ルルーシュは瞼を閉じて、ぐったりとしている。
自力で水を飲むのは困難そうだった。
諦めて、ジェレミアはグラスの水を口に含む。
唇を合わせてルルーシュの口に自分の水を流し込むと、ルルーシュの喉がゴクリと鳴った。
やっと水を飲んでくれたことに安堵して唇を離すと、ルルーシュの閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。
その瞳が「もっと」と強請っていることに気づき、ジェレミアは再び口に水を含んでルルーシュに与えた。
さっきは水を飲ませることに必死で気づかなかったが、ルルーシュの唇はとても柔らかかった。
男の唇などゴツゴツとしていて硬くて見た目ほど良いものではないとジェレミアは思っていたのだが、ルルーシュは違った。
見た目の期待を裏切らない触れ心地だった。
そうやって何度がそれを繰り返して水を飲ませると、満足したような吐息がルルーシュの唇から零れる。
ジェレミアを見上げるルルーシュの瞳がうっとりと細められて、誘うように顔が近づく。
ジェレミアは諦めて目を閉じると、ルルーシュの背に回した腕でその身体を抱き寄せた。
唇を押しつけてその柔らかさを堪能すると、それだけでは満足できそうにない。
ルルーシュの唇の隙間を割って舌を滑り込ませて、口内を探るように嘗め回すと、ルルーシュの舌がそれを追いかけて絡みつく。
夢中で貪って、名残惜しげに唇を離すと、ルルーシュは笑っていた。

「・・・また私を、試しましたね?」
「なんだ。気づいていたのか?」
「あんな子供騙しに引っかかる馬鹿はいません」
「お前は引っかかってくれただろう?」

ジェレミアは何も言わず、黙ってルルーシュを見つめている。

「大人の余裕・・・とでも言いたそうだな?」

ルルーシュは少しおもしろくなさそうだった。
ジェレミアは小さく頭を振る。

「ルルーシュ様は私に余裕などお与えにならないつもりなのでしょう?」
「当然だろう」

そう言ったルルーシュに不意に眠気が襲ってきた。

「お前の馬鹿な様子を観察していたら寝そびれてしまった・・・」
「・・・ずっと、起きておいでだったの・・・ですか!?」
「ああ・・・」

少し呆れはしたが、ジェレミアは瞼の重そうなルルーシュの身体をベッドに返すと、その身体を覆うように上掛けをかけた。
窓の外はすっかり夜が明けている。
主が目を覚ますまでの間に、身支度を整える為にベッドを離れようとすると、その腕をルルーシュが掴んだ。

「傍に・・・」

腕を掴んだルルーシュの手の力が弱くなり、それっきり声は聞こえてこなくなった。
代わりに心地よさそうな寝息がジェレミアの耳に届く。
深い眠りに引き込まれたルルーシュの顔には満足そうな表情が浮かんでいた。